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視覚化がイメージだけではなせないと思ってる人がいるらしいとかなんとかのツイート。この辺も割と深刻だったりするのがタルパ界隈な
自分の中から生まれるものなのだからソレに気づけないことで強い惑わしに溺れ陥る人が続出する世界…
心のあり方によって鏡に反射して映し出された世界が決まるの。だからアストラルは正しく構築すべきなんだと思うし。心は世界を映す鏡。だからこそ、多面的な視野と豊かな教養は必要だと思うしね…
「死」という言葉を受けた時、肉体的な死でしか解釈できない人間とはそもそも会話できない、世界が違いすぎるから 「死」というものに関する考察は山ほどあって、その中でも 一般的認識による死に対する排他的扱いとその原因 みたいなやつ。たとえば きみたちは普段ご飯を食べる時、そのご飯になるため犠牲となった動物さんたちのことはどう考えてますか?とかさ。摂理という意味でも死は否定されるものではないし、
だから私は他の人よりも比較的、死というものに対して寛容…である、んだと思う。忌避しない
たとえば、夜眠ることと朝目覚めること、これは比喩的な生と死のサイクルであるのだけど、ダメな人はこの説明してもダメだからね…おもろい
死は常に隣に居て、いつどこで何が起きて突然ポックリ行くかもわからんので
できるだけ悔いが生まれない日々の過ごし方を心掛けること、と。
死という生々しいものがあるから、人は刹那や、精神こころを大事にして紡ぎ繋げていこうとするのでしょう。
世界は破壊と創造によって廻っている
命というものに付随する尊厳というものは精神性がその付加価値を与えている
嫌いな奴ははよ死んでくれと思っている傍で好きな人には死んでほしくない、だとか
食用のはずのウーパールーパーが実際食われるのはかわいそう、とか
人間は非常に勝手な生き物である
そしておそらく、そう言う反応を示すのが「一般的」であり、何か根本的な部分から私は感覚が違うのかもしれん、と ぼんやりする。
たとえば、オカルト(というか精神的な世界)と、概念的な死は、なんだか同義みたいな扱われ方をしている、となんとなく感じる時もある。どちらも必要なものではあるので絶対悪ではない、というのは共通だけど。人々はこれを必要悪にしたがるきらいがある。
人は、何か悪いものを見つけるとそこにばかりスポットライトを当てようとしてソレの良さや実際の需要影響などを見ようとしなくなる、絶対悪として集団で批判、そして叩きに入る
どちらも 肉体世界と反しているジャンル であるので、仕方ないのかなとも思うが。
怪しいんだから怪しい、ンな胡散臭い世界に手を出してるなんてこと自体が危険要素
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